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シングルマザーになることを選び幸せになったであろう、パートタイマー女性の話

クリスマスに向けて聖歌隊の練習があるからと、地下鉄の階段を急ぎ足で降りていくサユミさんの後ろ姿を見送りながら、寂しい人だと思っていた。

サユミさんは、私がロンドン留学時代にアルバイトをしていた日系の航空会社で、パートタイマーとして働いていた38歳の独身女性だ。
私はカスタマーサービス部門の通訳として働いており、チェックインスタッフであるサユミさんとは持ち場が違ったが、お互いに地下鉄通勤だったので一緒に帰ることがあった。

日本人で独身のパートタイマーはサユミさん一人だった。労働許可の問題があったからだ。
イギリス人やEU加盟国出身の配偶者が居る者ならイギリス人と同様に働けるが、そうでない者の労働許可には制限が付く。そのため、会社が積極的に雇用する現地の日本人は既婚者に偏っていた。

サユミさんに配偶者はいなかったが、本人が永住権を持っていたので常勤で働けたようだ。彼女は大学卒業後からずっとロンドンに支社がある日系企業に勤め、20代のうちに永住権を取得したらしい。

「日本人がイギリスの永住権をもらうのって、以前は今よりもずっと簡単だったのよ」
と話してくれたことがある。
確かに時代背景はあるのかもしれないが、サユミさんはすんなりと永住権が取れるほど優秀な人だったのだろう。彼女の出身大学やキャリアを詳しく聞いたことはなかったが、知的な雰囲気から高いであろう学歴やキャリアが垣間見えた。

それほど優秀な女性が、なぜパートタイムの仕事をしているのか不思議だったが、
「前の仕事は、もう疲れてしまったの。転職しようと思って日本人向けの派遣会社に登録したら、紹介された中で一番給与の高い仕事がこれだったのよ」
と、淡々と話していた。

しかし、与えられる仕事に対してオーバースペックの彼女は、職場では居心地が悪そうだった。仕事にやり甲斐を感じられない上に、同じ持ち場、同じ条件で働く同僚たちは家庭持ちなので、話も噛み合わなかったのだろう。

主婦のパートタイマーたちから、
「サユミさんは独身貴族で羨ましいわぁ。時間もお金も何でも自由になるんだもの」
などと、絶対に本気で言ってないだろう言葉をかけられるたび、彼女は鉄壁の微笑みで受け流していた。

実を言うと、私はサユミさんのことが少し苦手だった。
あの硬い微笑みの下には、常に苛立ちが隠されていたからだ。
その苛立ちを刺激しないようにと気を使わなければならないため、いつもわずかながら居心地が悪かったのだ。

けれど、サユミさんの方では私に打ち解けてくれていたらしい。しばしば食事に誘ってくれたし、何故だか私には様々な打ち明け話をしてくれた。
学生だった私とは立場も持ち場も違い、年齢も離れているので気安かったのかもしれない。

サユミさんが色々と話してくれるので、私はサユミさんについて他の同僚たちが知らないことを知っていた。
サユミさんの彼氏が40代の日本人駐在員で、既婚者であることや、長年フランス人の人気ピアニストの追っかけをしており、近隣国でコンサートがあれば必ず駆けつけること。
休みの日や終業後はサークル活動に忙しく、一人暮らしの部屋で過ごすことはほとんど無いことなど。

ヒースロー空港から成田へ飛ぶ最終便を見送れば、私たちの終業時間は夜9時を回っている。そんな時間からクリスマスキャロルの練習に行くと言う彼女の後ろ姿を乗り換え駅で見送りながら、彼女がスケジュールを隙間なく埋めるのは孤独だからではないかと考えていた。
不安と孤独を自覚するのが怖いから、ひとりぼっちの時間から懸命に逃げているように見えたのだ。

しかし、その年のクリスマスに彼女が聖歌隊で歌うことはなかった。妊娠したからだ。
その日、私はサユミさんが住むアパート近くのビストロで、黙々とコック・オーヴァンを頬張っていた。
互いの休日に予定を合わせたランチは以前から約束していたにも関わらず、サユミさんは普段着にすっぴんで現れ、明らかに様子がおかしい。

何も注文せず、イライラした様子で水を飲むだけ。
職場の話を振ってみても、「私は今そんな話がしたい気分じゃないの」とにべもないので、黙ってナイフとフォークを動かし、空腹を満たすことに専念するしかない。

前回ここへ食事に来た時には奢ってもらえたのだが、今回は明らかにそんな雰囲気ではないので、気づまりな食事を終えると、私はさっさとレジに向かって会計を済ませた。

苛立ちの原因が分かったのは、彼女の住むアパートで食後のお茶をいただいていた時だ。ベッドに腰掛けた彼女は、
「実は人生が激変しそうなの」
と口を開いた。

「私がもう長いことフランス人ピアニストのファンだって話はしてあったわよね。先々月も、彼のリサイタルへ行くためにパリへ行ってた話もしたでしょ?実はね、私…そのリサイタルの後で彼とデキちゃったの。
避妊しなかったのよね。私は元々生理不順だし、年齢も年齢だし、もう子供はできないと思い込んでいて…」

どうやら、思いがけない妊娠の発覚に動揺し、かなり混乱していたらしかった。レストランで何も口にしなかったのも、つわりのせいかもしれない。

「私、産むわ。年齢的に、これが最初で最後のチャンスだから。
彼と結婚することになるわね。有給を取って、近いうちにパリへ行ってくる。大事なことだから、会って直接話したいの。
彼も独身だし、子供ができたと知ればきっと喜んでくれると思う」

あぁ、サユミさん。きっと彼は喜ばない。
大きなコンサートホールを観客で埋め尽くすほどの著名人ではないにせよ、それなりの人気とキャリアを備えたハンサムなフランス人ピアニストが、どうして何も持たない日本人の中年女性を妻に迎えるだなんて思うのですか。
彼が長らく自身のファンであるあなたとベッドを共にしたのは、単なる気まぐれかお情けだったのではないでしょうか…。

サユミさんがそのピアニストと抱き合いながら何を言われたのかは知らないが、欧米の男たちが女に甘い言葉を気安く吐くのは、それが文化であるのと、責任を取るつもりが無いからなのだ。特にフランス人を始め、スペイン人やイタリア人などラテン系の男たちほどその傾向は顕著であるゆえ、もし彼らと愛を交わすのであれば心して掛からねばならない。

しかも、イギリスを始めシングルマザーへの社会保障が手厚い国では、女性を妊娠させても結婚して責任を取らなければと考える男は皆無に近い。
「子供を産んでも国が養ってくれるのだから、僕が責任を取る必要なんてないだろう。君の子供なのだから、生みたいのならご勝手にどうぞ」と突き放されてしまうのがオチだろう。

2年しかロンドンで暮らしていない私でも理解していることを、十数年もここに暮らしているサユミさんが分かっていないはずはないのだけれど、人は誰しも「彼だけは違う」「自分だけは特別だ」と信じたいものなのだろう。

私は口を閉じて、ただ驚いた顔をしながら聞き役に徹していた。
実際に驚いていたのだが、私が驚いたのは妊娠の事実だけではない。いつもクールに振る舞っていたサユミさんが、冷静な判断力を失くしてしまうほど孤独に病んでいたという現実にたじろいでいたのだ。

サユミさんが彼との話し合いを終えてパリから戻った翌日、私たちはオフィスのロッカーで顔を合わせた。
「どうでした?」
おずおずと尋ねる私に、
「え?何のこと?」
と、早口で答え、その後は目も合わせようとしない。その態度に面食らったが、恐らく彼女は彼に冷たい仕打ちを受けたのだ。
それを含めて彼との思い出を「無かったこと」として葬り去り、素早く気持ちを切り替えていたのだろう。

それから3ヶ月ほどが経ち、お腹の赤ちゃんが順調に成長して安定期に入る頃、サユミさんの退職が発表された。
彼女は未婚のまま出産することを職場に伝えて制服とパンプスの着用を免除され、マタニティウエアで仕事に来るようになっていたが、高齢出産の初産であるため、早めに仕事を辞めて安静に過ごすことにしたらしい。

未婚のままの出産ということで、主婦パートの皆さんはどう声をかければ良いのか分からなかったようだ。誰もがぎこちない微笑みを浮かべながら、「元気な赤ちゃんを産んでね」と当たり障りのないお祝いの言葉をかけていた。 
サユミさんは相変わらず鉄壁の微笑みで受け流していたが、その表情には以前と違って余裕が漂っていた。

サユミさんが職場を去った後、しばらくして私も仕事を辞めた。学業を終え帰国の準備に入ったのだ。

帰国が目前に迫るなか、ロンドンライフを楽しみ尽くしておこうと忙しくしていた私の元へ、「渡したいものがあるから」と、久しぶりにサユミさんから連絡が入った。
待ち合わせたカフェで落ち合ったサユミさんは、ほんのしばらく会わなかっただけなのに、ふっくらと丸みを帯びてすっかり妊婦らしくなっている。

「これ、あなたがくれたプレゼントへのお礼と、お餞別。渡すのが遅くなってごめんなさいね。これまでは自分のことで精一杯だったから」
そう言って渡された小さな包みの中には、若い女性に人気のアクセサリーブランドのネックレスが入っていた。
ハートが揺れる可愛いネックレスを手に取った私は、パタ、パタと音を立てて、テーブルの上の紙ナプキンに涙を落とした。涙の訳をうまく言葉にできなかったが、私はとても嬉しかったのだ。サユミさんがもう孤独な女性ではないということが。

「やだぁ、泣かないでよ」
と言って笑うサユミさんの目には、以前には無かった強さが宿っていた。

サユミさんは、もう入院する病院を決めていたし、出産後に育児をサポートしてくれるコミュニティーセンターにも連絡を取っていた。
労働党政権下のイギリス(当時)では母子家庭に対する福祉も手厚いため、当分は働かなくても生活に苦労することはないはずだ。出産の準備は万端だった。

「これからのことは分からないけど、とりあえず両親に孫の顔を見せに日本へ帰ろうかな。今まではほとんど帰っていなかったし、帰るつもりもなかったし、帰れないと思っていたの。
でもね、きっと両親も孫には喜ぶでしょう。だから、帰ってもいいかなって」

きっとご両親は驚かれるだろうが、とびきり可愛いお孫さんの姿には、すっかり参ってしまうに違いない。

ロンドンには、日本に帰れない女たちが大勢住んでいた。
夢を持って渡英したのはいいが、キャリアも家庭も築くことなく年齢を重ねてしまい、帰り辛くなってズルズルするうち、本当に帰れなくなってしまうのだ。

サユミさんも、数ヶ月前まではそんな女たちの一人だった。
空港で働いていた頃は、いつも地下鉄の階段を駆け降りていくサユミさんを私が見送っていた。
けれどその日は、サユミさんが地下鉄のホームへと降りていく私を階段の上から見送ってくれた。

私が最後に見たサユリさんの姿は、寂しい後ろ姿ではない。彼女は柔らかな微笑みを浮かべながら、真っ直ぐに前を向いていた。

 

 


Author:マダムユキ

ネットウォッチャー。最高月間PV40万のブログ「Flat 9 〜マダムユキの部屋」管理人。
リンク:http://flat9.blog.jp/

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