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アルバイトは心のリハビリにも 引きこもりニートから社会復帰した女の子の場合

ピンポンパンポーン。

「当館をご利用中の皆様に、閉館時刻のご案内を申し上げます。当館の閉館時刻は、午後6時となっております。なお、展示室へのご入場は、午後5時30分で締め切らせていただきます。
ご観覧がまだお済みでないお客様は、どうぞお早めにご覧くださいませ」

これって誰の声だっけ?
館内アナウンスはレセプショニストの誰かが担当しているはずだけれど、声の該当者が思い浮かばなかった。

張りがあり澄んだ声質は若い女性に特有のものだが、過疎化が進んだ地方都市の美術館に若いスタッフなんてほとんど居ない。私を含め、ここで主力となって働いているのは40代〜50代の若くない女たちなのだ。

常設展示室の受付でその日の業務の締め作業をしながら、「あんな声の人いたっけなぁ」と考えていると、展示室のガードをしている森野さんに声をかけられた。

「ねぇ、今のアナウンスって、アリサちゃんでしょう? アリサちゃんは本当に変わったよね。声も話し方も以前とは別人みたい」
「えっ?!今の声ってアリサちゃんなんですか? あっ、でも、そうか。他に居ない…」

アリサちゃんは私たちの中で、唯一20代の若いレセプショニストだ。
若者が彼女一人しか居ないのだから、考えなくても若い声の主なら彼女以外にあり得ない。なのに、とっさに顔が出てこなかった。
何故なら、私が記憶しているアリサちゃんの声と先ほど聞いたアナウンスの声では、別人と言って良いほど印象が違うからだ。

アリサちゃんと一緒に働き始めて、そろそろ2年は経つだろうか。彼女の方が私より3ヶ月早くここで働き始めていたが、私と彼女は「だいたい同期」の同僚だった。

初めて会った日のアリサちゃんの印象なら、よく覚えている。あまりに頼りなさすぎて、かえって記憶に残っていた。
私がここでパートタイマーとして働き始めた初日に、当番制で回すミーティングの司会をアリサちゃんが務めていたが、伝達事項が聞き取れなくて困ってしまった。
ただでさえ消え入りそうなか細い声なのに、うつむきっぱなしで喋るせいだ。
けれど、「すみません。聞こえません」とは言えなかった。他のスタッフたちも遠慮して黙っている。

色白と言うより、陽にあたってこなかった証明のようにふやけた白い顔を真っ赤に染め、一生懸命話している彼女からは、少しでもつつかれればパチンと音を立てて弾けてしまいそうな脆さが感じられた。
懸命に務めを果たしているのに、年上の女達から「聞こえません」などと言われれば、それきり固まって何も喋れなくなってしまいそうだ。そんな彼女に皆が気を遣っていた。

アリサちゃんは人前で話すどころか、そもそも他人と会話をすることに慣れていなさそうな様子だった。
25歳だと聞いているが、年齢の割に幼く、化粧にも慣れていない。何故わざわざ人前に出て不特定多数の人に対応する仕事を選んだのか疑問だったが、そういう子だからこそ美術館という静かな場所が好きだったのかもしれない。

地方の美術館は刺激の少ない場所だ。都会と違って乏しい予算と貧弱な集客力の問題を常に抱え、話題性のある企画展が開催されることなど滅多に無い。
1980年代から1990年代にかけて乱立した地方の公立美術館は、当時のバラマキ政策の中で建てること自体を目的に作られているため、その後の運営については計画が杜撰なのだ。
現状でも運営費が減らされ続けて苦しいのに、今後いっそうの人口減が予想される中で、永続的に税金で維持していけるとはとても思えない。

お金がない職場は当然給料も安い。給料の安い仕事に若い人は集まらない。
ここでは週に5日フルタイムで働いたとしても、一人暮らしができる収入は得られなかった。短時間契約のアルバイトであればなおさらだ。
ここで働いているのは私のような美術好きか、美術館という場所が好きな物好きばかりなのだった。

アリサちゃんは若く、ダブルワークをしているわけでもないのに、私よりもシフトに入る日数が少なかった。
「バイトのない日は何をしているの?」
と聞いても、
「特に何も。ずっと家に居て、ただ休んでます。私は乗り物酔いがひどいんですよ。バスも電車も無理で、車にも乗れません。だから出かけたいと思わないんです。
それに、疲れるし。ここのバイトをしているだけで疲れてます」

と言う。その答えも事前に予想はできていた。アリサちゃんは全く体を動かしていなさそうな体型をしていたし、通勤時の私服を見る限りでも、おしゃれな服は1枚も持っていなさそうだったから。

アリサちゃんは地元の国立大学を卒業していたが、就職に失敗したのか、そもそも就職活動をしなかったのか、卒業後は働きもせず自宅に籠っていたと言う。これまで実家を出たことがない、いわゆる引きニートというやつだ。

引きこもりだった彼女がどのような経緯で働いてみようと奮起したのか知らないが、3年に渡る引きこもり生活の後、社会復帰に向けたリハビリとして選んだのが、美術館でのアルバイトという訳だ。

3年も社会と断絶していたのだから、彼女は働き始めてすぐに仕事ができた訳ではない。私が入った頃はまだ、とてもじゃないが彼女は表に出る仕事に向いていなさそうに見えた。

しかし、向いていないからと言って簡単に辞められては、結局みんなが困ってしまう。給料が安くても良いから美術館で働きたいという物好きの数は限られており、若手となると更に希少な存在だ。
いくら求人を出しても応募者は集まらず、慢性的な人手不足に悩まされている中で、これ以上スタッフが欠けては現場が回らない。

そこで、私たちは申し合わせた訳ではないが、アリサちゃんに気持ちよく働いてもらう為、どんな時にも彼女の仕事ぶりを褒め、何かと頼りにした。
実際に、彼女は頼りになった。
国立大卒なだけあって、アリサちゃんは真面目で頭が良かった。少ない人数で回さなければならない現場は、一人の人間に任される業務が多岐に渡り、覚えなければならないマニュアルがやたらと多い。

そこへいくと、若いアリサちゃんは物覚えが良い上に、どんなことでもきちんとメモを取るので、分からないことは大抵彼女に聞けば答えてくれた。
それだけでも重宝したが、私たちのような中高年のスタッフにとって、アリサちゃんの若さは心が和んだ。

自分自身が若い頃にはそう思えなかったが、若さゆえの瑞々しさとは、他に何の付属物や付加価値がなくても、それ単体で輝いていて美しい。
顔の造作や体型などは無関係に、若い子はただ若いというだけで可愛いのだ。
そうやって私たちに可愛がられているうちに、やがてアリサちゃんに変化が見られるようになった。

能面のように無表情だった顔には笑みがこぼれるようになり、おどおどしていた態度には落ち着きが出て、率先して仕事をこなすようになった。
外見の変化も顕著だった。ふと気がつけば、体型が二回りも小さくなって制服がダブついている。

ダイエットはしていないと言っていたが、通勤で歩くようになったのが良かったのだろうか。ふよふよと膨らんでいた体からは無駄な水分と脂肪がすっきりと落ち、心なしか背筋が伸びて、姿勢も良くなったように見える。

消え入りそうに小さかった話し声も、いつの間にか声を張って話すようになっていた。それでアナウンスの声があんなにも違って聞こえたのだ。

声の変化に気づいた帰り際、私は本人を捕まえて、
「今日のアナウンスすごく良かったよ。綺麗な声で、どこのお姉さんかと思っちゃった。以前と随分変わったね。ガードの森野さんも、アリサちゃんが変わったって言ってたよ」
と褒めた。彼女はプイっとして、
「そうですか? そんなことないと思いますけど」
と言うが早いか、そそくさと帰ってしまった。そっけなさは相変わらずだが、私たちの掛ける言葉が、確実に彼女に沁みて変化を促していることは、ちゃんと分かっていた。

それからも、彼女の変化は続いた。
バスをチャーターして近隣県の美術館へ視察に行く研修旅行に、乗り物酔いが酷いはずのアリサちゃんも参加したのだ。
大丈夫なのかと心配したが、
「薬を飲んできましたし、多分大丈夫かなって。それに、私も行きたいから」
とモジモジしている彼女に、思わず感動を覚えてしまった。「出かけたいと思わない」と言っていた彼女が、日帰りとはいえ旅行に行きたいと言ったのだ。随分な変わりようではないか。

以前に比べて、シフトに入る日数や時間も大幅に増えている。このまま順調に働き続ければ、そう遠くないうちに現場スタッフのリーダーや、更にステップアップして現場運営マネージャーにもなれるかもしれない。
残念ながら、リーダーやマネージャーになっても良い給料はもらえないのだが、金銭的な価値以上のものがある。
将来的に転職や婚活を考えたときに、アルバイトからステップアップしていった経験と経歴は役立つはずだから。

少しずつ打ち解けて、雑談に応じるようになったアリサちゃんからは、色々な話を聞いた。
高校時代は美術部で頑張っていたこと、RPGゲームが好きなこと、2次創作でイラストを描き、同人サイトに投稿していること。けれど、それでお金を稼ごうとは思っていないこと。

「絵が上手なんだね。お金にしようと思ってないと言ったけど、チャレンジはしてみたら?
いきなり稼げるようになるわけじゃなくても、コツコツやっていくうちに、いつの間にか絵で収入を得る道が開けて、立派な副業になるかもしれない。

あなたは若いし時間もあるから、今から将来に向けて副業を育てていくのもいい。あるいは、スキルを活かして広報の仕事を手伝わせてもらえれば、ステップアップもしやすくなるよ。そして、ゆくゆくは転職の道を探った方がいいと思う。

アリサちゃんは、ずっとこのままここで働きたいと思っているかもしれないけど、この美術館がこの先もずっとあるかどうかは分からない。もし私たちを雇っている会社が指定管理から手を引けば、スタッフは全員契約終了になってしまう。そんな不安定さの中で、私たちは働いていることを忘れないで。

だから余計なお世話かもしれないけど、将来のことを考えて、ちゃんと準備をしてね」

それは本心からの助言だった。
アリサちゃんが引きこもりから社会復帰するには、ここで働くことは良いリハビリになっただろう。働いていくうちに自信をつけた今の彼女に、もう引きこもりだった頃の面影はない。若さは些細なことで躓きやすいが、若さゆえに立ち直りも早いのだ。
もう次の階段を上っていい頃だった。

あれから日本でもコロナが蔓延し、美術館を含めた公共施設は休業を余儀なくされ、やっと再開したと思っても、感染の波が来るたびに又休館だ。感染対策を万全にして営業再開しても、来館者数は急減している。

コロナが収束しても不安が残る。コロナ対策で疲弊し、財源が枯渇した地方の自治体は、一体いつまで文化事業とその箱を維持できるだろうか。

ただ、アリサちゃんのことは心配していない。きっと彼女は休業中の有り余る時間に、次の階段を登り始めただろう。

 


Author:マダムユキ

ネットウォッチャー。最高月間PV40万のブログ「Flat 9 〜マダムユキの部屋」管理人。
リンク:http://flat9.blog.jp/

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