編集部コラム
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「私は頭が悪いから」アルバイトを辞める日にそう言った、忘れられない同僚の思い出

その日、私はいつものように始業15分前にロッカールームに駆け込んだ。バタバタしながらレセプショニストの制服に着替えていたら、とっくに身支度を終えているベテランスタッフの飯塚さんに声をかけられた。

「ゆきさん、今日って仕事が終わった後に何か予定ある?」
「いえ、何も無いです。帰ります」

鏡から目を離さないまま素っ気なく答えると、
「よかった。予定がないんだったら、ゆきさんも一緒にお茶しに行かない?遠藤さんの出勤は、今日で最後だから」
思いがけないことを言われて手が止まった。え?遠藤さんて今日で辞めるの?
驚いて振り向いたが、
「詳しいことは後でね」
と言い残して、飯塚さんは先に2階の事務所へ上がってしまった。よく見ると、いつもは私より遅く出勤してくる遠藤さんの姿が見えない。

遠藤さんは車の免許を持っておらず、遠方の自宅から自転車に乗ってくるため、始業10分前に息を切らせて駆け込んでくるのが常だった。

遠藤さんが本日付で退職するというニュースに衝撃を受けながら、急いで支度を済ませて事務所に滑り込むと、そこにはすでに彼女の姿があった。どうやら退職手続きの最中らしい。忙しそうな様子に声をかけられず、朝のミーティングが始まるのを待った。

それにしても、遠藤さんが辞めるだなんて寝耳に水だ。旦那さんが交通事故に遭ったと聞いていたが、突然の退職もそのことと関係があるのだろうか?
ミーティングでも詳しいことは分からなかった。一身上の都合で遠藤さんが退職することになり、本日が最終出勤日だという発表と、本人による短い挨拶があっただけだ。

その後も直接話す機会を掴めず仕事を終えて、事情が分からないまま指定されたカフェへと向かった。
てっきりスタッフみんなで遠藤さんのお別れ会をやるのかと思っていたが、カフェに着いてみると、そこには飯塚さんと、飯塚さんと仲良しの春名さんしか居なかった。
どうやら主賓である遠藤さんを含めて、たった4人のお茶会だったようだ。急な誘いに時間を作れる人が少なかったのだろう。

職場から少し離れたカフェまでは、私たち3人はマイカー通勤組なので車で移動し、10分かからずに到着したが、自転車の遠藤さんは遅れていた。

「あの、遠藤さんはどうしてお辞めになられるのですか?私は昨日も一昨日も仕事中となりの席に座っていたのに、何も聞いていなくて。飯塚さんたちは、遠藤さんがお辞めになることご存知だったんですか?」

私が本人の到着を待ちきれず、彼女の退職について質問を始めると、飯塚さんが大雑把な事情を説明してくれた。

「ご家庭のことだから、私たちも詳しく知ってるわけじゃないのよ。
半月ほど前に、遠藤さんが急に1週間お休みを取ったことがあったでしょう。ご主人が交通事故に遭われて入院されて、私たちはその時に彼女が休んだシフトの穴埋めをしたから、それで遠藤さんとも少しお話しをして、辞めると聞いたの。

怪我がどの程度なのかは知らないけど、彼女の旦那さんはしばらく働けなくなってしまったから、ここの仕事はもう続けられないって。
私たちの仕事は、環境はいいし体力的にもキツくなくて、学生や主婦には丁度いいけど、半日しか働けないしお給料も安いでしょう。だから、もっと時給が良くてフルタイムで働けるパートを探すそうよ」

そんな話を聞いている最中に、ゼェゼェ息を切らしながら遠藤さんがやってきた。もう秋風の冷たい季節だというのに汗をかいていたので、かなり飛ばしてきたのだろう。

アラフィフの遠藤さんは、雨の日も風の日もどこへ行くにも自転車で、おかげで体力にはまだまだ自信があると言いながら、コーヒーだけを注文した。昼食を食べていないので彼女もお腹が空いているはずなのに、節約しているのだろうか。

「お辞めになってしまうのですね。旦那さんが事故に遭われたことは聞いていましたけど、そんなにお加減が悪いだなんて知りませんでした。もう次のお仕事は決まっているのですか?」

私が会話の口火を切ると、遠藤さんは何てことないかのように、朗らかな笑みを見せた。

「ううん。まだ決まってないけど、友達が働いてるドラッグストアに行こうと思ってる。あそこなら、受付の仕事よりも時給が高いし、毎日8時間フルで働けるから。
私、歳はとってるけど健康だもん。まだまだ元気なんだから、ここは私が目一杯はたらいて頑張らなくちゃって思うんだよね。

私ね、高校生の次男に、大学受験を諦めさせたくないの。それから、地元の大学に行ってる長男が、『俺の奨学金の借り入れ増やそうか?』って言ってくれたんだけど、奨学金てさ、要するに借金じゃん?息子にこれ以上の借金を背負わせることも絶対にさせたくない。
だから、私が頑張るしかないの」

いやいやいやいや、ちょっと待って!
「すごいわね」「頑張って」と、遠藤さんのガッツに感心している飯塚さんと春名さんを遮って、私は遠藤さんに向き合った。
「待ってください、遠藤さん。
仮に受付の仕事よりも時給が若干高いドラッグストアで、1日8時間、週5で働いたとします。お元気だとおっしゃいますが、無理がきく年齢ではありません。
ここは地方の中でも給与水準が低い県で、特別なスキルや資格を持たないアラフィフの女性がフルタイムで働いても、月収は13万円前後がせいぜいでしょう?
ということは、今より月に3〜5万円収入が増えるだけです。疲れた体に鞭打って最大限に頑張っても、年に60万円程度の違いしかないんですよ。

それより、利用できる制度を利用した方がよくないですか?
息子さんは地元の国立大学へ通われてるんですよね。ということは、学費は年間55万円前後ですね。

世帯収入が激減した、あるいはこれからする予定なら、大学授業料の減免制度が利用できるのではないでしょうか?全額免除の対象になるかは分かりませんが、半額免除になるだけでも、かなり助かるはずです」

「うそ?国立大学ってそんな制度があるの?」

と、3人ともが驚愕して口を押さえた?
驚かれたことに驚いて、私も口を押さえそうだ。

「ありますよ。昔からあります。うちの長男も国立に行ってますが、入学式の時に大学からもらったパンフレットにも書いてありました。お読みになりませんでしたか?」
「えっ。そうなの?大学からもらったものちゃんと読んでない。待って!家にまだあるかも!帰ったら探してみる!」
「そうして下さい。きっと書いてあります。もしも処分していたら、大学に問い合わせてみてください。
それから、下の息子さんは高校生でしたね?なら、高校生等奨学給付金も貰えるんじゃないですか?
確か、親の事故や病気などで家計が急変した場合にも貰えるはずです」
「すごい!なんでそんなことまで知ってるの?」
「子供たちが学校から持って帰ってくる書類に書いてあります。今までの倍働くことで減収をカバーしようとなさる心がけはご立派ですが、払わなくて済むものを払わない。利用できる制度は利用し、貰えるものは貰うようにするだけで、数十万円も違います。これだけのお金を自力で稼ごうとしたら、フルタイムで数ヶ月働いて、やっと稼げる金額ですよ。
次男さんも大学進学を考えているのなら、貸与型ではなく、給付型の奨学金を調べてみてはいかがでしょうか?
給付型の奨学金は、自治体がやっているものから、大学、民間企業、財団のものまで、調べてみると色々あります」
「そうなんだ。私、全然知らなかった。私は調べ物をするのが苦手で、今さっき教えてくれたことも、どこに問い合わせればいいのか分からなくて…」

話しながら、私は歯痒くなっていた。
「どうして困っていらっしゃることを黙ってらしたのですか?私たち、昨日も一昨日も一緒に働いてたじゃないですか。もし昨日までのあいだに多少なりともご事情を話してくれていたら、色んな制度や問い合わせ先をリストにして、今日までにお渡ししたのに」

歯痒さを通り越して、若干腹が立っていた。
遠藤さんは良い人だ。そして真面目なのだ。
真面目な良い人だからこそ、安易に他人を頼ったりせず、自分でなんとかしなければと思い込んでしまったのだろう。
私は、彼女のような不器用な善人が損をするのが許せない。

何より悔しいのは、これより2日前に、私を含めたアルバイト・パートのスタッフたちは、会社から時給アップの通知を受け取っていたことだった。退職が決まっていた遠藤さんには送られていない。

会社全体で社員の給与体系が見直された結果、私たち非正規社員の時給も一気に150円上がることになっていた。となると、遠藤さんが行くつもりだと話していたドラッグストアよりむしろ時給は高くなる。辞める必要なんて無かったではないか。

何故こんな滑稽なことになってしまったかといえば、退職にあたっては夫の事故を理由にし、お金に困っているとは話さなかったのだろう。そこを正直に話してさえいれば、近々大きく時給が上がることが伝えられ、勤務日数も増やしてもらえただろうに。
困っていることを他人に打ち明けることに抵抗を感じる気持ちは分かるが、話してくれなければ周囲も助けようが無い。

辞めて新しい仕事に就くより、今の仕事を続けながらダブルワークをした方がはるかに効率が良かったはずだが、今更それを指摘するのは残酷過ぎる気がした。

「ちょっと待っていて下さい。連絡すべき窓口の電話番号を、今ざっとメモに書き出しますから」
私がペンを走らせていると、遠藤さんは心底嬉しそうな笑顔でこう言った。
「ありがとう。本当に助かるわぁ。私は頭が悪いから」

私は頭が悪いから。私は頭が悪いから。私は頭が悪いから…
胸に突き刺さる一言だった。
「お願いだから、そんな悲しいこと言わないで下さいよ」と、言いたくて言えなかった。

メモを渡してお茶会はお開きになったが、「これから頑張るね!」と手を振った遠藤さんの明るさと裏腹に、私の心は暗澹たる思いが広がっていた。

私も最初の結婚が破綻した後、数年間は母子家庭として支援を受ける立場だった。その時に、実は日本の福祉制度の手厚さに感心していたのだ。
「え?こんな給付があるんだ」
「へぇ、こんなものも無料になるんだ」
「すごい。こんな制度を利用できるんだ」と。
そして、「こんなに手厚いサポートがあるのに、テレビでやってる悲惨な貧困母子家庭の話は、いったい何なのだろう?」と、不思議に思っていた。

けれどある時、行政から来た片親家庭に対する給付金の案内の手紙を読んでいて、雷に打たれたようになった。唐突に気がついたのだ。こうした書類は基本的に、一面びっしりと漢字で書かれてあることに。

「そうか。読めないんだ…」
日本の福祉制度は、書類を読みこなし、自ら申請の手続きをしなければ利用できない。難解な漢字と文章の読解力がないと、支援の網からこぼれてしまう。

遠藤さんも、漢字だらけの書類を目にした途端、読む気を失くしてしまう人だったのだろう。だから何も知らなかったのだ。

あの日を最後に、遠藤さんの消息は知れない。
しかし、持ち前のガッツで利用できる支援制度を調べ、目一杯に活用して、今頃は生活を立て直していると信じたい。

 


Author:マダムユキ

ネットウォッチャー。最高月間PV40万のブログ「Flat 9 〜マダムユキの部屋」管理人。
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